ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ

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「一緒に慣れよう」の教育観〜第2期第1回を終えて

こんにちは。WCDCのへるめこと佐々木晃也です。本日は、先週行われたWCDC第2期 第1回のレポートついでに書いています。第1回は、早朝10時から19時までという丸一日のワークショップ形式でのプログラムになっており、プログラム内でワールド・カフェをデザインし、開催し、振り返るというプログラムになっております。最初の1回で、ワールド・カフェを①デザインするということ、②運営するということ、③振り返るということ、という本コミュニティにとって大事な3要素を一気に体験してもらうことが目的です。その基本的なサイクルを第1回で体験してもらうことによって、今後の実践・学習の感覚を感じてもらいます。実際には、朝10時に集合し、受講者と主催側でチェックイン(自己紹介)をし、その後、いきなり、ワールド・カフェをつくってみる体験をします。午後には招待制のワールド・カフェをそれぞれが参加者を招待しておき、実施し、夕方からは振り返りを行い、1日のプログラムが終了になります。こうしたプログラムになっているのはWCDCの「教育観」が反映されているからかと思います。今日は、こうした教育観について、少し書いてみようかと思います。 「ワークショップ的課題」への批判ワークショップという学習スタイルは一般的に学校教育(授業)と対比させて説明されることがあります。それは「先生(教える人)がいない」という説明です。ワークショップでは、いわゆる「先生」のポジションの人を「ファシリテーター」と呼びます。ファシリテーターの翻訳はいろいろとありますが、動詞「facilitate(促す、容易にする、楽にする)」の名詞形なので、ここでは「促進する人」と訳してもいいかと思います。文献によっては「助産師」とも書かれていることがあります。何にせよ「何かを産み出すことを助ける、あるいは促進する人あるいは立場」のことをファシリテーターと呼びます。そして、WCDCでは、ファシリテーターはわたしや共同主催のまーぼーの立場を指すかと思います。ぼくらがもし、”学校の先生”であれば「ワールド・カフェはこうやってデザインするとか、こうやって運営するとか、こうやって振り返る云々」ということを受講者に机に向かってもらって、レクチャーして、ノートをとってもらうというようなことをするのかもしれません。ですが、ぼくらはファシリテーターなので、そういったやり方はしません。では、どうやってやるのか。一つのやり方として考えられるのは、まずこちらから簡単なレクチャーをして、その後、適当な課題を受講者に出して、解いてもらう、というやり方かと思います。例えば、「ワールド・カフェで重要なのは問いの立て方なので『ワールド・カフェ』という本に書いてあるよい問いの要素『パワフルである』『わくわくする』などを満たす問いを「コミュニケーション」をテーマにつくってみてください」というような「よい問いの要素」の小レクチャーと「コミュニケーション」などのなんらかをテーマにした課題に取り組むワークをやってもらうかもしれません。これはいかにも「ワークショップ的な課題」ですしかしながら、これは、ほとんどの点であまり好ましいものではありません。まず、「重要なのは問いの立て方」というところです。もちろん、問いの立て方が重要なのはそうなのですが、実際「問いそのもの」は、「問い」だけでつくられるわけではなく、他のワールド・カフェの構成要素(時間的要件、参加者の属性や人数など)との関係の中でつくられるものであり、いきなり「問いそのもの」については考えられないのです(詳しくは、ぼくの論文「対話型ワークショップにおける問いのデザインに関する研究」を読んでください。)ですので、問いそのものを考えるのは重要なのですが、そのためには、それ以外の要素を全て把握していることが重要だとぼくたちは自分たちの研究成果から考えております。キャリア相談をされて、相談者にいきなり答えを求めても出てこないようなものです。「本当の答え」というのはさまざまな−それでいて必要不可欠な−要素の把握を通して、必然と立ち上がってくるものです。問いづくりも同じで、重要だからといって、いきなり問いそのものを求めるのはあまり理に適っていないのです。次に、「本に書いているよい問いの要素」という点です。これもあまり好ましくありません。ワークショップが学校教育に対比される際、論点となっているのは、「◯◯が言うから正しい」という権威的なものに頼る考え方や学び方への懐疑・批判です。簡単な話ですが、16世紀までほとんどすべての人が「宇宙は地球を中心に回っている」と考えていました。けれど、ガリレオらの科学的研究によって「地球は太陽を中心に回っている」ことがわかりました。こうした史実は種々ありますが、そこから言えるのは、自分で調べてみることなしに「常識」や「見解」に無批判に身を委ねるのはあまり好ましいものではないということです。それこそこうした教育は対話の思想家パウロ・フレイレによって「銀行型教育」(今でいう「知識詰め込み型教育」の名残といってもいいでしょう)というように批判的に指摘され、対話教育の対岸に位置付けられています。それゆえ、まず、権威的・支配的な誰かの規定に従うのではなく、自分たち自身でつくってみて、後から、そういった見解を知って、自分の言葉として納得したり、吟味したりすることが好ましいかと思っています。また、最後に「「コミュニケーション」をテーマにつくってみてください」という課題のつくり方ですが、これも全く好ましくありません。しばしば、なんらかの能力を身につけようとするとき、課題の絞り込みとしてテーマや領域を絞ることがあるかと思いますが、わたしたちにとってはこれも好ましくありません。それは、ここでの場合、学習者自身が問いたいことから外れたテーマを設定してしまいかねない可能性があるからです。また、教育学用語で「真正性」という言葉があります。プロジェクト型学習において、「真正(authentic)な課題」に取り組むことの重要性を指摘する際に語られる言葉です。要するに単に講義を聴いたり、”おままごと”の体験学習に取り組むのではなく、実際の”本物の問題”を題材にするということが重要なのです。いわずもがななのですが、教育者はしばしば忘れがちな事実、人は”本物の課題”に取り組むときに、しっかりと学んだり、考えたり、成長したりするという事実を思い出します。また、これは「評価」の問題にもつながります。例えば、学校教育が普及していない地域の子ども(例えば発展途上国で労働もしている子どもたち)に「3+7は?」という算数の初歩レベルの問題を出しても、答えられない場合があります。こうした際、子どもたちは算数能力のレベルが低いと評価されてしまうことがあります。ですが、実際、そういった子どもたちは労働の中で、遥かに高度な演算計算を暗算で行うことができたりします。こうした”状況の中での能力”こそ、まずもって、生き抜くために必要な能力です。「3個のりんごがあって、7個のみかんがあって」というような授業の中での限定的な状況下でのおままごと課題では、本当の能力を評価することあるいは鍛えるということは疑わしいです。それゆえ、主催側から、このワークではこうした答えを出してください、というような擬似的な課題設定は好ましくありません。さて、先に挙げたいわゆる「ワークショップ的課題」のほとんどの要素に批判的な見解を提示しました。それでは、ぼくたちはどういうやり方をしているのか。WCDCでは「一緒に慣れよう」という学習スタイルを取っています。「習う」より「一緒に慣れよう」の教育観この学習スタイルは全くシンプルなスタイルで「人は一緒に創ることでその人にとって必要なことを学ぶ」という学習観を前提にしています。WCDCの目標は「よいワールド・カフェをデザインできるようになる」ということです。ならば、その感覚や技能を分解して、バラバラに擬似的に学んでもらうのではなく、実際に一緒につくってみることが一番学べます。いくら自転車の乗り方に必要な能力を分解して、それぞれを学ばせたところで、転びながら実際に乗ってみようとした体験に適う学習スタイルはありません。また、必要な能力を分解できるとは思いますが、できたとしても、それら一つ一つに着目すれば、ある人は、一つの能力に関しては満たしてたり、一つの能力に関しては十分に高いレベルで持っていたり、一つの能力に関しては不足していたりするはずです。それらを個々に診断し、補っていくのは現実的ではないですし、なにより重要なのは、個々の能力を総合しつつ、実際の状況で活かす真正な能力の育成です。また、自転車の乗り方と異なるのは、「まず、やってみろ」の教育観では限界があるということです。自転車は乗れたときのイメージが浮かびやすいです。実際乗れたことは主観的にも客観的にもそのときに認識できます。けれど、よいワールド・カフェ、あるいはよい問いが生成できたときの感覚ははたから見て、わかりにくいのものです。やったことがない人にとっては何を目指して、どうやっていいのか、よくわかりません。では、こうした総合的かつ実践的な能力を何がゴールかもまだわからない学習者にどのように教えればいいのか?何も難しいことはないと思います。こうした能力の発達プロセスは、職人(あるいは技芸者)の熟達プロセスに似ているのです。舞踊やダンス、陶芸、ビリヤード、空手など、ありとあらゆる創造活動や身体表現活動において、学習者は師の側について、真似たり、一緒にやってみるなかで、スキルを熟達させていきます。子どもが親のあり方を見て、コミュニケーションの仕方や社会での振る舞い方を学ぶのとも同様かと思います。そして、もちろん「師(あるいは親)」がすべて正しいとは限りません。一つが正しいのであれば、こんなに流派やらなんやらは存在しません。そうであるなら、わたしたちは、師であり、同志という関係性の中で、ともに真正な課題(WCDCでは、午後に実際に参加者を招いてワールド・カフェをやるためのワールド・カフェをデザインするという課題)に、一緒に取り組み、それに必要な考え方や振る舞い、技術、感覚をそれぞれに体験しながら学んでいくことが理に適っていると思われます。そして、できたときに、一緒に「できた!」という瞬間を味わい、喜びます。こうして、「できた!」という感覚が共通のものになれば、その感覚を手掛かりに、その後、個々のチームで実践をつくりあげていってもらえます。こうした共通感覚なしに、学習者が主催側にいつまでも答えを求められてもキリがないですし、主催側としてもそうした関係性を望んではいません。こうした学習体験はほとんどの人に未知であり、不確実でドキドキすることではありますが、同時に魅力的であり、一緒にやるからこその安心感もあります。そして、こうした真正な仕方での実践と振り返りを通して、自分たちの能力や感覚を言葉にして、意識下させながら、次なる実践に活きるような糧・知恵を血肉としていくことを目指します。もちろん、この過程で、わたしたち(わたしと古瀬)も新しくさまざまなことを学びなおします。わたしたちも、「午後のワールド・カフェのデザインどうしよう!?」というところではそのときは同じように切羽詰まっていますし、本気で取り組んでいるからです。 本当は「先生」がいないといけないのではないのか?WCDCでは、こうした「一緒に慣れよう」の教育観で全6回を進めていきます。今後も楽しみです。ここでは、最後に疑問を呈して終わりたいと思います。冒頭の方で、ワークショップは「先生(教える人)がいない」というように、しばしば授業教育と対比されて説明されるという話をしました。しかし、わたしは「実は先生はいないといけないんじゃないのか?」と思っています。なぜなら、これまで数多くのワークショップに参加してきましたが、優れたワークショップのほとんどは「先生」がいました。「聴く」ということ。「呼吸する」ということ。「語る」ということ。そうしたことに、徹底的に向き合い、人生の多くを突き詰めてきた人が「ファシリテーター」と呼ばれる立場に立って行われたワークショップでは、本当に見たことも、感じたこともなかった次元の経験ができました。それは、その次元の世界を先に生きている人(ファシリテーター)がいたからであり、その世界はそうした人が一緒にその世界へ旅してくれることで初めて体験できた世界でした。だからこそ、わたしは、あるテーマについての優れたワークショップには、実はファシリテーターとして最もそのテーマについて切実に学ぼうとしているあるいは学び続けている者がいるのではないか、そ言葉の本当の意味での「先生(先に生きる者)」がいるのではないかと考えております。ワークショップというスタイルの広がりによって、アマチュアが教育実践できる学びの場は増えてきましたし、そういった広がりの一方で、あまり突き詰めていない者が開く学びの場も増えてきたかと思います。人の実践にとやかく言っている暇はあまりありませんが、こうした状況はちゃんと問題視して、それぞれが自身の実践を批判的に省察するべきではないかと思います。そして、WCDCとしても、一層自分たち自身が学び続ける姿勢をちゃんと保っていこうという念を忘れずにこれからもやっていきたいと思います。へるめ

問い化(questionalization)

「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」P. Gauguin 1897 「問い(question)」が問題なのではなく、「問い化(questionalization)」が問題なのだ。ワークショップデザインにおいて、問い(課題)の設定は最重要項目であり、ファシリテーターのプログラムデザインの真価が問われるところであろう。 一昨年から、「問いのデザイン」の問題は古瀬と取り組んできた。(その過程の一部は拙論「対話型ワークショップの問いのデザイン過程に関する研究」を参照)いまやはっきりと言えるのは、「良い問いとは?」とか「優れた問いとは?」という問いの立て方はそもそも間違っているということである。問題なのは「問い(question)」ではなく、「問い化(questionalization)」である。 わたしたちは、現実を生きている。現実は、出来事の連なりと別のその連なりの非意味的連結による偶然としての出来事の現実化によって形成され続けており、その最中でさまざまな境界が形成されては、消滅し、再度形成される、という永遠である。わたしたちは、その様相を関係と言ったり、システムと言ったり、ネットワークと言ったりしながら、現実そのものをなんとか言葉にしようと、そして、決して埋まらない溝、現実とその記述との間にある距離の不可避性を引き受けながら、生きている。 わたしたちは方法としての「問い(question)」を求めているが、あらかじめゴールを知らない。対話において、対話する以前に、自分たちが何を知りたかったのか、を知ることはない。対話が完結したときに、自分たちが何を知りたかったのか、を十全に認識する。そして、それを対話だという。方法とは、あらかじめ語ることも定めることもできない。方法とは十全な認識に至ったときに、反省的に認識されるものでしかない。 それゆえ、「問い(question)」を目的として、そこに目指そうとする方法はすべて誤りである。問題は「どんな問いをつくるか」ではなく、われわれが「問い化(questionalization)」することであり、そこには反省的に認識されたものはあれど、方法にはなりえない。その経験的束は方法論であって、現実の方法ではないのである。 ワークショップデザイナーは、「問い」ではなく「問い化」の問題に取り組むべきである。わたし(たち)がどのようにして「問い化」するのか、それが重要である。 主体や対象をあらかじめ措定せず、目的と方法を虚構せず、われわれ自身が問い化すること。おそらくそれがワークショップデザインの最重要問題である。2017. 2. 1.  WCDC共同代表者 佐々木 晃也(へるめ)*------------------------------------------------------------------------------* 現在、ワールド・カフェ・デザイン コミュニティは第二期生(2/25〜5/14の間、全6日程)の募集しています。(2017年2月1日現在、残席2席)会の概要についてはこちらからご覧ください。*------------------------------------------------------------------------------*

わたしたちは「参流者」を求めている

”我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん あるとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。”攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 第5話ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー昨日の午前中、共同代表の古瀬と打ち合わせだった。第2期の募集を開始し、来月下旬には開催予定だ。昨日は、今週の金曜夜に開催する「ミニ体験会&説明会」の打ち合わせだったのだが、その内容の話し合いの中で、わたしはある「語りづらさ」を感じていた。というのも、この3ヶ月間のWCDCのプロジェクトに申し込んでくれる人への「かかわり方」についてのことだ。語りづらさは、彼らへの呼び名に立ち上げ当初から現れていた。わたしは彼らをなんと呼べばいいのか、ずっとわからなかった。一般的に敷衍してしまえば、「参加者」なるのだろうが、「参加」という言葉はあまりしっくりこず、暫定的に「受講者」と呼んでいた。ただ、「受講者」もそれほどしっくりは来ていなかった。参加、参画、参入、受講、、この辺りの言葉はどれもしっくりこない。何がしっくりきていなかったか、は「参流者(さんりゅうしゃ)」という言葉が、古瀬のイメージを視覚化しながら聴く態度に触発され思わず、わたしの口から出てきたとき、そして、それについて追って話していたときにわかった。馴れ合わない。依存しない。わたしと古瀬はこれまで「日本一周ママチャリキャラバン」「対話のアトリエ」「問いの教室」と実践をともにすることが何度かあった。ただ、それはあくまで互いが互いの関心のもとで生きている中でともに活動することになっただけであって、いつも一緒にやろうとかそういうことをしてきたわけではなかったし、一緒にやるために考えついたものでもなかった。そして、この「ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ」についてもおそらくそうなのだ。これらの活動は基本的には「プロジェクトベース」であり、わたしたちはもともとチームではない。どちらが発起人にせよ、相手の力が必要であったからともにやってきたし、基本的には「終われば解散」が暗黙の前提だ。この協働の前提は、互いが独立した探求者であり、その態度を相手にも求めていることの表現かと思う。わたしたちは馴れ合わない。依存しない。そして、そういった関係を求めている。もちろん、このWCDCに申し込んでくれた者にもそういった態度を求めている。わたしたちはあなたの先生ではないし、先輩でもないし、言ってしまえば友人でもない。結果的に、先生と呼ばれることがあったり、先輩のように慕ってくれたり、友人となっていたりももちろんするが、わたしたちは鼻からそういった関係は求めていない。けれど、一般的には、そういった関係を好み、無自覚にしろなんにしろ、求めている指導者もいるだろう。わたしはそういったコミュニティは好きではないし、誓って、そういった人間にはなりたくない。だから、あなたには”参加”してほしくもないし、”受講”してほしくもない。わたしはあなたに”流れてきて”欲しいのだ。そして、わたしたち自身も”流れていたい”んだ。こうした考えはあまりにも語られてないように思える。そして、それゆえ言葉で表現するのが長らく難しかった気がする。ただ、今なら少し言葉にできる。よって、ここでは二つの形象を通して説明してみたい。一つは「苗木」。もう一つ「サーフィン」である。一つ目の形象「苗木」WCDCは誰のものか?わたしのものか、古瀬のものか。どちらのものでもない。そして、どちらのものでもある、こともない。WCDCは、わたしと古瀬のあいだにあった種子であり、昨年の夏に発見し、育てはじめて、第1期開催までに芽となり、第1期がはじまってからは英治出版さんの元で育てはじめている苗木なのだ。わたしと古瀬はその育成者であり、恵みの享受者であり、いわずもがな、第1期生は同じく、ともに育ててくれた育成者であり、恵みの享受者であると思っている。わたしたちは、この植物に必要な養分を必要なときに常に検討しながら、与え続けてきた。そうして、育った苗木なのだ。もし、わたしたちがこのケアを怠ったら、途端に枯れはじめるだろう。そして、最終的には枯れ果ててしまうだろう。だが、今日までの半年の間、なんとか育ち続け、わたしたちはいくらかの恵みを得ることになった。あるものは、協働の理を。あるものは、表現の喜びを。あるものは、存在の工夫を。あるものは、理性の活用法を。などなどと、各々が各々にとって必要な恵みをこの苗木から得たかと思う。これがわたしたちの共同活動あるいはコミュニティのイメージの一側面と言えるかと思う。わたしたちは、こうした苗木にともに養分を与えてくれる者を求めている。そして、ともに苗木からの恵みを享受し、収穫の祝祭を楽しみたいと思っている。二つ目の形象「サーフィン」わたしはサーフィンをやったことがない。おそらく古瀬もやったことはないかと思う。しかしながら、想像するに、サーフィンは海の波に乗る一連の活動であるのは間違いではないだろう。では、サーフィンはどのように始まるのか。まず、波を見つけるだろう。「ここにいい波がある」と。そして、そういった発見からはじまり、そこで誰かが波に乗りはじめる。すると、端から見ている者がそこに合流していったり、する。気づくと、その波のある海岸は「◯◯海岸」と呼ばれるようになり、そこにより多くの人が合流したりする。あるいは、いくらか楽しんで、違う波を求めて行ったり、あるいは、そこの波が好きなり、ずっと乗っていたり、たまに戻ってきたりするのかと思われる。思うに、WCDCは、この「波」の一つである。社会という海で、わたしと古瀬がこの「波」を発見した。そして、その海岸に「ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ」という名前をつけることにした。その海岸に行けば、波に乗ることができる。もちろん、乗ろうとしなければ乗れないものであるし、乗ろうとしても最初は難しかったりもするだろう。また、その日の体調によっては乗れなかったり、うまく乗れたりもするだろう。けれど、波は依然としてそこにある。わたしと古瀬はこの波に乗ってみることにした。それはこれまでいろんな波(ワークショップ)に乗ってきて、確かにいくつかはこの波に似たような波もあったが、どうもそのどれらとも異なる波だったし、この波に乗ることで新たな何かが学べたり、身につけたりできると直感していた。そして、わたしたちは「誰か一緒に波に乗らない?」と声をかけ、誘いはじめた。ただ、あまり多くの人と乗っても、スペースがなくて、みんな楽しめないだろうということもあり、人数の制限はしている。やってみて、あぁ、もっとこういうタイミングで乗りにきた方がいいな、とか、あぁ、乗っていないときはもっとこういう感じで交流した方がいいかもな、とかも気づくことがあり、適宜修正している。そうこうして、みんなで乗ってみる。これが割と楽しいし、人の乗り方から、学ぶことも多分にある。だから、わたしたちがやっていることは、この波が「あるよ〜」と言うことと、混雑したり、危なくならないように、最小限目を光らせつつ、自分たちも一緒にサーフィンを楽しむことなのだ。こうした形象によって表現される思想がわたしたちの実践にはあり、わたしたちは、わたしたちの誘いに賛同し、波に乗りにくる人を「参流者(さんりゅうしゃ)」と名付けることにした。この言葉には「流れ(波)に参加する」という意味もあるし、留まることを前提にせず「流れていく者」という意味も含まれている。STAND ALONE COMPLEX(独立者たちの共同体)わたしたちは人生というサーフィンをしている。好きな波に乗ればいい。そして、いくらでも学び、気づき、試し、楽しめばいい。そこでの出会いもまた楽しいだろう。一つの波に飽きてきたら、違う波を探せばいいだろうし、たまに戻って乗りたくなったら、戻ってきたらいい。ただ、基本的には自分で試みて、自分で学ばねばならない。だからこそ、「参流者」には独立者(スタンドアローン)であってほしい。そして、WCDCには、チームプレーなどという馴れ合いや依存関係などの前提はないし、求めていないし、求めないでほしい。わたしたちの間にあるとするならば、「スタンドプレーから生じる、チームワークだけだ」ろう。

告知文を作成するということ--宛名のない手紙--

長らく更新を怠っていた。動向に関心を持っている方々には失礼なことをしました。ワールド・カフェ・デザイン コミュ二ティは、無事、第1期生が集まり、はじまっています。更新を怠っていた1ヶ月強の間で、すでに第1回と第2回の勉強会は終えていて、いま、1期生は各チームに分かれて、ワールド・カフェの企画をおこなっている。企画、と一言で言っても、話し合う内容はもちろんこと、参加人数、場所、時間、プログラム、会の目的、問い、公開イベントか非公開イベントか、などなど、その内実は多様に分岐し、決めていかなければいけないことは多い。その一つ一つに検討、検証をおこない、メンバーの共通了解のもと決めていかねばならない。どこから決めていくのでもいいかとは思うが、とりわけ、時間的な制約(開催日が決まっているなど)がある場合、早い段階で目下の課題となるのは、「告知文の作成」である。告知文の作成が完了する、ということは、すでに、核となるコンセプト、参加人数、場所、時間、参加費などの形式的な要素は定められているはずである。そうして、参加者が告知文を読んで、参加するか否かを決めるための要素は提示しなければならない。参加しないとしても、「参加しない」と参加者が決めることができることが倫理的であると言える。「倫理的」というのは、「それぞれが別の人生を生きており、それぞれができるだけ、自身に与えられている必然性と自由のもとで、自分の仕事を為していくべきである、という人間観において、できるだけ、余計な考え事はないほうがよい。」そのような意味である。さて、このような要素が決まれば、あとは具体的に文章を編まねばならない。そういったときに重要となるのは、どう控えめに言っても、「誰に(どんなふうな人)」伝えるか、ということになる。しかし、このあたりは多くの「言葉で伝える」「文章術」などの本を読めばだいたい同じようなこと(それでもとても重要であり、いつでも思い出すべき価値のあること)が書いてあるため、ここで書くことは控える。今日書き留めておきたいのは、「告知文とは宛名のない手紙である」という考えである。告知文を作成するということいまや多くの人がイベント情報を広めるためにSNSを使用することは通例のようになっている。もちろん、まだまだSNSをやっていない人もいることが予想されるため、googleドキュメントやpeatixなどのプラットフォームを使用することもよいだろう。使い分けてもいいし、両方使ってもいい。なんにせよ、その決定権は「何をしたいのか、どんな人に来て欲しいのか」という会のコンセプトにかかっている。しかしながら、誰が見るかもわからない相手に、自分たちがやりたいことに興味を持ってもらい、自身の有限な人生の時間(主に休息時間)を費やしてもらうには、それなりの文章を書かねばならない。こういった意味で「広告」の領域の仕事に長けている人は「告知文作成」において卓越した技術を発揮するだろう。言わずもがな、タイトル、文章の流れ、文体を目的工学的に位置付け、表現することが求められるからである。しかしながら、そのような目的工学的な技術に加えて、ワークショップの告知文は独特なセンスが求められる。それは、端的に言えば「勇気」である。ワークショップは、普段話しづらい内容を普段話しづらい人たち(それでいて、話したがっている内容を話したがっている人たち)が集まって、話し合うからこそ、ワークショップと言える。内容はもちろんだが、まずもって、それを告知文において掲示しておく必要がある。話しづらい内容は原因があって、話せていないのだし、話しづらい人は原因があって、話せていないはずであるし、そうであるならば、いきなり初対面の人たちと話し合おうというのは、簡単なことではない。話したいけど、話しづらいことを無理やり話せ合わせようとするならば、心理的配慮が必要となるだろう。だからこそ、告知文の段階で、ある程度どんな話し合いをするのか、を伝えられていなければならない。しかし、話しづらいことであろうし、主催者側も話したいから、話せていないこと。そういったことを公的の場に放つことは勇気がいる。慣れてくるとなくなってくるが、実践を始めて最初の頃は、自分自身がどんな人間か、知らない多くの人たちに知られることになろうこと、それによって、なにか思われるかもしれないこと。そういったことに想像力を行使してしまい、不安が生じてしまうかもしれない。それならば、勇気が必要になってくる。心理的な不安状態で萎縮してしまい、ちゃんと何を話したいかを伝えられなければ、実際に参加してくれた方に誤解を与えてしまったり、悲しい気持ちにさせてしまうかもしれない。それではいい出会いは生まれにくいし、望まないだろう。デザインとは、偶然を意図的に発生させるための技術である。対話というよき偶然を発生させる上では、単なる技術的な巧さだけでなく、人間臭い勇気、器も試される。だからこそ、ちゃんと自分たちが何を話したいか、を伝えようとしなければならない。換言すれば、「内面の吐露」である。混沌とした内面の問題意識を押し付けがましくなく、知らない人も読める文章に表現しなければならない。簡単なことではないだろう。「誰に」---つまり、対象が明確であればあるほど、文体は同定されていくし、二人だけの秘密という暗黙の約束が内面を吐露しやすくなるかもしれないが、公的な場に放つのであれば、そういった身内の優しさのようなものに期待はできない。しっかりと伝えるべき要素を定め、想いを伝えようとしなければならない。これは易しいことではないが、労苦を経た文章は必ず、まだ見ぬ「よき出会い」を準備する。その後もしっかりとワークショップ内容を洗練させれば、必ずよき出会いがある。そこに一つ、ワークショップの本質的なおもしろさがあるのではないだろうか。「告知文の作成」ということはそういった意味でワークショップデザインの一要素だとわたしは考えている。ぜひ、第1期生には、なんらかの形で(それが「ビンビンと」か、「じわじわと」か、などはわからないが)わたしたちをまだ知らぬ人にもなにか伝わっていく「宛名のない手紙」を綴ってみて欲しい。へるめ

「対話って何の役に立つんですか?」に真剣に応えてみる

どうも、WCDC(ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ)共同主催者の中岡です。えっと、まぁ、標題の通りです。こうした問いを不問に付すことは容易ですが、わたしとしては答えられなければいけないと思っています。いや、答えられないにせよ、応えようとし続けなければいけないでしょう。わたしは、その人の思想を端的に知るには、その人の最も根源的な信念を素朴に問うことで垣間見えると思っていますし、そこで”本当のところ”が見えてくると思います。というわけで、なんにせよ、これに応えられなければいけないですし、このブログがワールド・カフェ・デザイン コミュニティに関心のある方が読んでいるのであれば、決して曖昧なままにしておくことはできないでしょう。ということで、まぁ、ちょっと取り組んでみたいと思います。 「役に立つ」とはまず、この問いについて考えていく前にはっきりとしておかねばならないところがあります。この問いを問うているのはどのような人間か、というところです。わたしが思うに、こう問う人間はざっくり二つのパターンに分けられると思います。一つは、対話の社会的な意義を知りたい人もう一つは、自分にとっての対話経験の意義を知りたい人です。一つ目の方は、社会的な意義を求めているわけですから、なんらか人間社会における”問題”の解決に寄与していることを知りたいのでしょう。そして、二つ目の方は、自分の問題、自分ごとの問題の解決に寄与していることを知りたいと思われます。二つのパターンはその者が対象としている問題の性質に違いがあります。そのため、こうした問題の性質を見極め、その者がどのような性質の問題の解決を求めているか、がわかれば、そのコンテクスト(文脈)においての対話の有用性を説明することができれば「何の役に立つのか?」という問いへある程度了解をもらえる程度に説明が可能でしょう。しかしながら、これではツマラナイはずです。このような個別具体的なコンテクストに合わせた説明で実際は問題ないか、と思いますが、WCDCをやっている人間がこのような段階で思考に終わらせてしまうことはできないと思います。ですので、もう少し進むことにします。重要なのは、社会的にしろ、個人的にしろ、人間の生における実践上の課題(問題)をなぜ対話によって解決できるのか?というところです。 「問題を解決する」とはなぜ対話が問題を解決できるのでしょうか?いや、一旦立ち止まると、対話が解決できない問題もあるのではないでしょうか?一方で、解決のために対話という手法が適している問題もあるのではないでしょうか?この辺りの見極めは対話実践者にとって喫緊のものかと思います。もちろん、わたしたちにおいても同様です。そして、ここでは、まず「問題を解決する」ということが定義されていなければならないでしょう。定説だと「問題」とは「理想と現実の差異」のことを指し示す言葉です。そして「解決する」というのは、この差異を埋めること。つまり、理想イメージを現実化する行為を指し示します。いうなれば、理想の社会と現実の社会のギャップ、理想の自分と現実の自分のギャップ、これらを埋める活動全てが「解決行動」です。 不可能性と二つの分化さて、ある程度の見取り図ができたと思います。「対話が何の役に立つのか」を知りたい人は大きく二つに分かれます(この問いが別の意図で投げ出されたものでない限り)。それは、社会的意義か自分の実生活においての意義です。そして、それらの有用性は問いを投げかけた人のコンテクストに依存しているため、それに合わせることができれば、ある程度の了解は得れるが、それで満足するのではなく、この有用性(問題解決性)そのものと対話の関係を説明することをここでは目指してきました。そして、前節では「問題を解決する」という言葉の意義を定めました。さて、では「なぜ対話は問題を解決する」のか、つまり「なぜ対話が理想と現実の差異を埋めることができる」のでしょうか?結論から言えば「対話によって埋めることはできない」と思っています。ホームレスの問題、自殺の問題、慰安婦の問題、社会的マイノリティの問題、最近では、強姦や不倫、アウティング。日常場面において、上司との関係、家族との関係、自分の人生について、とさまざまな問題がありますが、そのどれも対話によって解決することは不可能だとわたしは思っています。ですが、ここには二つの分化(分かれ道)が見られると思います。一つは、”誰が”対話するのか?というところ、もう一つは実践上の問題です。誰が対話するのか?一つ目ですが、もし、上記のさまざまな問題について”当事者でない人”が対話しているのならば、対話による問題の解決は不可能かと思います。マスコミや市民、政治家や企業が対話しているのならば、その時点で問題の解決は不可能です。なぜなら、彼らにとっての問題は自分の問題ではなく、外部にあるからです。そのため、問題は対話によって得られた気づきは具体的なアクションまで展開しなければ「対話」は無意味と化すでしょう。しかしながら、当事者による対話であれば、そうとは限りません。「自分の問題に自分ではない誰かが耳を傾けてくれ、一緒に考えてくれた。」このような体験は、実際の問題の解決にそのときは至らずとも、なんらかの変化が当事者自身に起こります。つまり、表面上では、なんらの解決に至っていないが、別の問題が解決されている場合があるのです。そして、その変化は実際の問題より重要であることが少なくありません。これが一つ目の「分化」です。つまり、対話によって問題を解決することはできなかったが、わたしたちが表面的に認識されていない当事者にとっての問題解決が対話によって成されたということです。 実践上の問題もう一つは、実践上の問題です。これは先ほども書きましたが、活動家にとって対話は手法です。それによる気づきによって、具体的なアクションを展開させ、外部の問題を解決に至らせなければなりません。それゆえ、対話による解決は不可能です。対話の有用性、つまり、解決が導かれるかどうかは、その後の実践に依存しているのです。ですが、ここでも、一つ目のような変化が起こっている場合があります。それは次のような変化です。「同じ組織にいて、自分の組織が誰かの役に立っているようではあるけれど、一方で私自身はどうだろうか?いつも言われた仕事をこなしてはいて、どうやら誰かの役に立っているようだから、経済的豊かさは巡ってはくるが、なんだかもどかしい。違和感がある。」こういった人は現代において少なくないかと思います。このような人にとっての”問題”は自分の力の確かさを認識し、非経済的側面での意味としての喜びや満足を得られていないことです。しかしながら、もし、活動する組織、分業が進んだ組織の各構成員が互いの喜びや経験を対話によって共有することをはじめたら、どうでしょうか?先のような人は自分の力(自分の仕事の意義)を実感できるかもしれませんし、もしかしたら、彼らの間にもっとできることが見えてくるかもしれません。このときに、間に生まれる気づきが、おそらく、われわれが「集合知(コレクティブ・インテリジェンス)」と呼んでいるものの一つの側面かと思います。対話はこのような意味で社会的な意味での問題解決を促進しつつ、その解決に関わっている当事者の問題を解決させている場合があります。これが二つ目の”分化”です。 このような二つの分化を認識すると、本論の問いにわたしたちの納得が深まる程度に応えられることができることになったでしょう。以上の通り、対話は決して(表面的な)問題を解決しません。しかし、その一方で、対話は当事者個々人の内的な問題を潜在的に解決しつつ、(表面的な)問題を解決する土壌を育てていると思われるのです。 あなたへ以上が、現段階での標題の問いに対するわたしの応えです。これはWCDCを通して述べていますが、共同運営者の古瀬とは少し異なってくるかもしれません。また、今後変わっていくかもしれません。もしかすると、異論がある方がいるかもしれません。一部了解できるが、わたしはこうも思う、という方もいるかもしれません。また、今は何も明確に思わなくても、なんだか”違和感”を感じている方もいるかもしれません。わたしはあなたのような存在がいることを大変有り難く思います。そして、あなたと一緒に対話の場づくりの実践を続けながら、お話していくことができれば、それは幸せなことだと思います。また、全然わたしが述べたことに関心はないが、WCDCにはかなり関心があります、という方もいるかもしれません。あなたと交流できることもわたしによって本当に幸いなことです。大切なのは”差異”なのです。差異はわたしとあなたのポテンシャルそのものです。あーだこーだ、と真剣に、かつ、柔軟に両端を行き来することこそが何かを生み出す活動的源泉だと私は理解しています。その差異の間を反復し続けることで何が生まれるか、そして、そんなわたしたちと世界の間で何がうまれていくか、それが楽しみでならないのです。みなさまにお会いできること、心から楽しみにしています。2016.9.11 中岡 晃也*------------------------------------------------------------------------------*現在、ワールド・カフェ・デザイン コミュニティは第一期生(10/8〜12/4の間、全6日程)の募集しています。(正式な申し込み開始は9月24日22:00〜)また、募集に伴って体験会を開催します。以下の2日程で開催いたしますので、関心のある方はぜひご参加ください。▼体験会のご案内https://wcd-commu.themedia.jp/pages/573657/page_201607281633▼Facebookイベントページもあります!・体験会①(2016年9月22日)https://www.facebook.com/events/1805543026398585/・体験会②(2016年9月24日)https://www.facebook.com/events/1644321502548476/*------------------------------------------------------------------------------*

ワールド・カフェを本気で学ぶ際の相場は?

どうも、共同主催者の中岡です。今日は多方面から「参加費が高い」という声をチラチラいただくので、「そんなことないんだよ。高くないんだよ」ということをお伝えする記事を書いています笑正直なところ、料金設定についてはかなり古瀬と話し合いました。ぼくらは互いに本業があり、理念(対話の場づくりを学び合うコミュニティをつくっていきたい、広げていきたい)に重きを置いて活動しているので、料金設定の段階でハードルを上げすぎることにならないよう、かなりの注意を払いました。ただ、もちろん個々人の尺度があるので、みなさまが「高い」と感じたのであれば、それはもう致し方ないところではあるのですが、僕らとしては「対話を広めたい」「若い人(学生など)にも学んでほしい」という想いから、真剣に考えて料金設定しました。今回は、その経緯だけでもお伝えできればと思います。ワールドカフェを本気で学ぶ際の相場は?まず、ぼくらはいま現在、ワールドカフェの手法を本気で学びたい際にかかる費用の相場を調べ始めました。自分で自力で実践しながら学んでいくという流れは省きますが、「専門的な機関でしっかり学びたい」という範囲で探すと、以下のような並びになりました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー⑴大川恒さん(「ワールド・カフェをやろう」「ホールシステムアプローチ」を香取一昭さんと共著している日本のワールド・カフェ実践の第一人者)・『ワールド・カフェ』の事前準備とファシリテーション術<20名限定>実施期間 1日時間 8時間料金 52920円(税込)・ワールド・カフェファシリテーター養成ワークショップ実施期間 1日時間 8時間料金 45000円(税込)⑵香取一昭さん(「ワールド・カフェをやろう」「ホールシステムアプローチ」を大川恒さんと共著している日本のワールド・カフェ実践の第一人者)・ワールド・カフェ基礎講座実施期間 1日時間 7時間料金 20000円(税込)・ワールド・カフェ達人塾実施期間 1日時間 7時間料金 20000円(税込)⑶ワールドカフェ・ネット(ダイナミクス・オブ・ダイアログ合同会社のWebメディア。ワールド・カフェをはじめとした対話に関する様々な実践情報を紹介している。)・対話の場づくり実践シリーズ「ワールド・カフェのつくりかた」実施期間 1日時間 8時間料金 27000円(税込)⑷株式会社ヒューマンバリュー(本年、創業30周年を迎える組織開発を専門にする会社。人、組織、社会によりそい、学びを通して未来につながる今をともにひらくことをミッションとしている。)・ワールド・カフェ・プラクティショナー養成コース実施期間 2日時間 15時間料金 80000円(税別)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこのように概観したとき、ワールド・カフェという対話の手法を本気で学びたいと思ったときに、だいたい1日で2〜4.5万円はかかるようになってたんだな・・・とぼくらは思いました。そして、各プログラムを見るとわかるんですが、参加者の”実践”はありません。「プロフェッショナルのワールド・カフェの体験と振り返りやディスカッションによる学び」というのがメインとなっています。素朴な疑問概観を終え、ぼくらが思ったのは素朴に「高いな」ということでした。商売として実施しているのもあるのだろうし、参加する人も組織開発やアイデア創発でさらなる利益を狙っている人なんだろうから、このぐらいは”投資”の範囲で考えられるものかとも思うのですが、それにしても高い。そして、単純に高いという話だけじゃなくて「果たして1日体験して、レクチャー受けて、ディスカッションしていっただけでワールド・カフェをちゃんとやれるようになるのか?」という疑問が浮かびました。ぼくは、2012年から東京大学情報学環でおこなわれている大学生向けのワークショップデザイン勉強会「FLEDGE」に参加し、現在もOBとしてプロボノ参加しているのですが、そこでは半年間みっちりとワークショップデザインを専門にしている先生方からレクチャーやフィードバックを受けながら、2回ほどのワークショップ実践を通してワークショップデザインを学んでいきます。毎年その過程に伴走していると、人が”何かできるようになる”っていうのは、それについて言葉で教えてもらったり、語り合っているだけじゃなくて、自分たちで”実際にやってみる”という体験がなければ、本当の意味で学びが深まらない(血肉とならない)のだなと実感せざるを得ません。水の中に入らず泳げるようになる、自転車に乗らず乗れるようになる、そんなことはないのです。このあたりは、ワールド・カフェ・デザイン コミュニティが「体験学習のサイクル」を学びのバックボーンにしているところと通じ合います。「1日の講座に上記の金額を払って、実践もなくて、本当にワールド・カフェができるのだろうか?」ぼくらはそういう疑問を持ちました。何かを本気で学ぶこととお金のことそのような業界の相場とぼくらの疑問・想いを踏まえ、プログラムと料金設定を熟考していき、約3ヶ月間の全6回のプログラムが以下となっています。ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ 第1期生実施期間 6日時間 34.5時間料金 54000円(税込)ね。相場的にはびっくりじゃないですか?けれど、それでも「高い」と感じる方がいると思います。ぼくも自分が参加者として考えると正直「安い!」とは思えません。ただ、社会人になって「何かを本気で学ぶ」っていうのはこういうことなんじゃないのかな、と思う部分もあります。ぼくは大学生のときに大学の講義の1コマを学費と照らし合わせて単純計算したところ、90分の授業に3000円かかっていることに気づきました。親が学費を払ってくれたり、いっぺんにたくさんの金額を払っていると感覚がわきづらいかもしれませんが、「本気で何かを学ぶ」っていうことには現代の日本社会ではどうやらお金がかかるみたいです。同時にお金と自分の人生の時間を掛けているのに「なんだこの授業は?」ってことや「なんだこのワークショップは?」という体験もたくさんしてきました。そして、ワークショップデザインや対話の場づくりを学ぶ中で、そんな学習者の想いを汲み取って本気で学べるような場をつくるのは本当に難しいことであるとも実感しています。みなさまが料金設定にどう感じるか、はわかりません。けれど、ぼくと古瀬は絶対に後悔させないよう、みなさまのこれからの人生の生きる血肉となるような学びを一緒につくっていければと思っていますし、そういうふうにプログラムはデザインしていっています。長くなりましたが、この文章を通して、「興味はあるけどちょっと高いなぁ」と思って悩んでいる方が何か考えを整理できるキッカケになっていれば幸いです。また、まずは体験会を開きますので、もしよろしければいらしてください。一緒に学び合いましょう。そのときを楽しみにしています。2016.8.30 中岡晃也 *------------------------------------------------------------------------------*現在、ワールド・カフェ・デザイン コミュニティは第一期生(10/8〜12/4の間、全6日程)の募集しています。(正式な申し込み開始は9月24日22:00〜)また、募集に伴って体験会を開催します。以下の2日程で開催いたしますので、関心のある方はぜひご参加ください。▼体験会の案内https://wcd-commu.themedia.jp/pages/573657/page_201607281633▼Facebookイベントページもあります!・体験会①(2016年9月22日)https://www.facebook.com/events/1805543026398585/・体験会②(2016年9月24日)https://www.facebook.com/events/1644321502548476/*------------------------------------------------------------------------------*

古瀬とプロジェクトをやっていて思うこと①

古瀬とWCDC(ワールド・カフェ・デザイン コミュ二ティ)のプロジェクトを進めていると思うことがある。今日はそんなところをつれづれに書いてみようと思う。まずは、彼との出会いから始めてみたい。 古瀬との出会い共同主催のメンバー 古瀬 との出会いは大学1年の冬まで遡る。(写真は、2010年の僕と古瀬。参宮橋のカフェにて。)彼は僕が志望していたゼミ(研究室)の1年上の先輩で、1年時のゼミ選考後、新年度が始まる前のプロジェクトミーティングをキッカケに彼と出会った。僕が所属していた研究室は各学年研究活動に取り組むことと並行して、学内でプロジェクトを行っていた。プロジェクトは全部で4つあり、各学年で希望に合わせて、Web班、ガリ版班(今でいうフリーペーパーづくり)、映像班、ラジオ班の4つのプロジェクトにメンバーが分かれた。プロジェクト全体において「メディア」をつくることで「メディアリテラシー」を学ぶというねらいが先生にあったのだと思う。(先生の専門の一つが「メディアリテラシー」だった。)いま思うと、ぼくたちは「アクティブラーニング」というものをやっていた。実践を通して学びを深めるというスタイルはぼくには性に合っていた。また、自分たちの自己満足でつくるのではなく、先駆者(例えば、実際にラジオ番組をつくっている人)との交流や情報受信者(ラジオであれば「視聴者」)の声を取り入れつつ、プロジェクトを進めていった。先生が最初からそのような過程での学生の深い気づきをねらっていたかはわからないが、継続的かつ発展的に活動をつくっていく方法、そして、学生自身が学びを深めていける方法としては素晴らしい体験ができたと思う。有難いことである。さて、僕は上記のプロジェクトの中から「ラジオ班」を希望した。理由は「おもしろそう」と思ったからだ。人数がたくさん集まって、選考になるのかなぁ、と思っていたが、想定外にバラバラの希望が出たようで、すんなり第一希望に通った。ここで少し驚いたことを覚えている。「え!みんな他のプロジェクトの何に惹かれたんだ!?」と驚いた。「みんな自分と同じものにおもしろみを感じるわけではないんだな」としみじみ感じるのはまだまだ先のことである。同じラジオ班のメンバーであり、先輩だったのが古瀬正也である。第一印象は正直全く覚えていない。ただ、最初のラジオ班ミーティングの後、空き教室に誘われ「世界のエネルギー問題と六ヶ所村の現状」について話しを受けたのは記憶に残っている。1、2時間話を聞いていたが、収まりがつかず、大学の近くカフェ移動して、引き続き話しを聞き、落ち着いた頃には夕方になっていた。彼は当時「世界的な環境問題」に強い関心と問題意識を持っていたと思う。そして、それがのちに「対話」のプロジェクトにつながっていく。いま、気づいたのだが、このまま書いていくととっても長い長い話しになる。今回はここまでとして、本題に入るとしよう。彼とプロジェクトをしていく上で僕が思うことをいくつか書き下ろし、ブログを締めようと思う。 ミーティングの本題以外の近況共有がすっごく長い彼とプロジェクトをしていて思うことは本当にたくさんあるのだが、いつも印象深いのは「ミーティングの本題以外の近況共有がすっごく長い」ということだ。僕らの打ち合わせは基本的に2時間は軽く超える。長いときは午後いっぱいなど4,5時間打ち合わせをしている。みなさんも「打ち合わせ」をすることがよくあると思うが、どういう感じでやっているだろうか?1時間ぐらい?もしかしたら30分ぐらい?「長い打ち合わせはわたしもあるよ」という方もいると思うが、それでは、打ち合わせの前置きはどれくらいするだろうか。「前置き?そんなのあってないようなもんでしょ」という方もいるかもしれない。軽く挨拶を済ませて、本題に入る。それが”普通”だと思う。ただ、僕らの打ち合わせの前置きは1時間以上かかることがザラである。打ち合わせ後の話し合いが2時間を超えることもある。”普通”の基準を持ってすれば、”無駄”と思えなくはないが、僕はそうは思わない。これは「僕らが何を大切にしているか」というところに関わる話だ。おそらくだが、僕らはあんまり”普通”の基準を重要視していない。いや、重要ではあるが、それ以上に重きを置いている基準がある。それは”自然”という基準だ。 ”自然”という基準わたしたちは、同じプロジェクトを誰かと一緒にやっていても、互いの状況は刻一刻と変わり続けている。最近他の仕事でうまくいかないことがあったり、パートナーとの間で起きていたことだったり、自分の人生の計画についての大きい気づきがあったり、最近感じたおもしろいことやびっくりしたこと、悲しいことや楽しいこと、身体の成長や異変、互いの状況は離れている間に刻一刻と変わり続けている。いつもどおりに時間と場所を決めて、会ったとしても、目の前にいるのは、前に打ち合わせしたときの相手であり、そうではない。それが”自然”である。もしかしたら、打ち合わせどころじゃない状況であったり、何か上記のような変化の中で身体が共有することを求めていることが打ち合わせの内容以上にあるかもしれない。僕らはそうしたときに”普通”であることより、その”自然”に身を任せることを大切にしている感覚がある。だから、すっごく共有したい感覚があったら、まずそれについてコミュニケーションしていく。打ち合わせを終えて、まだ何か終わっていない感覚があったら、それを探しながら、コミュニケーションを続ける。気づいたら、喫茶店で男二人で涙を流していることがある。(僕が嗚咽を漏らすこともある。)確かに、これは”普通”じゃない。そんなことは十分に知っている。しかし、”普通”であること以上に”自然”であることを重視している。”自然”でいたい。そうあることを尊重し合いたい。そして、僕は”自然であること”を自分に求め、古瀬に求める。そうだからこそ、見えてくるものがある。そこから新しい何か知ることもある。そして、僕らはそうであるからこそ知れることがかけがえないのない、素晴らしいことだと知っているのだと思う。だから、僕らのミーティングの本題以外の近況共有が”結果的に”すっごく長い。”普通と比べると”すっごく長い。ただ、”自然”と比べると長くない。いや、比べることではないのだろう。そのときどきの長さこそが”自然な長さ”なはずだからだ。古瀬とプロジェクトをやっているとそんなことを思わざるをえない。 デザイン=自然をつくることさて、”自然であること”は僕らがワールド・カフェをつくるときにも十二分に反映していることだと思う。「対話」という出来事は”普通”と比べると特別な出来事かもしれないが、実際は”自然なこと”だ。対話は”させる”ものでもないし、”起こす”ことでもない。対話は起きるものだし、いままさに起ころうとしているものだ。まさに”自ずから然り”である。だから、シンプルに言えば、身を任せればいいのだが、それは、おそらくこの世界で最も難しいことの一つだ。どこかの誰かが「最もよくできたデザインは神の真似事だ」というようなことを言っていた気がする。僕は最も「よくできたデザイン」は「自然をつくること」と同義であると思う。そして、そのためには「自然と合一して、世界に働きかける行為(能動性)」を体感を通して学ばねばならない。僕はまだまだ修行中だ。一生修行中だと思うが、もっともっとその真髄を学びたいと思っている。ワールド・カフェ・デザイン コミュニティはそのような学習のポテンシャルがあると思っているし、そうなるようデザインしている。だからこそ、ミーティングの段階から僕らは”自ずから然り”の態度で臨んでいる。みなさんと学び合えること、僕は待ち望んでいます。2016.8.24. へるめこと中岡晃也*------------------------------------------------------------------------------*現在、ワールド・カフェ・デザイン コミュニティは第一期生(10/8〜12/4の間、全6日程)の募集しています。(正式な申し込み開始は9月24日22:00〜)また、募集に伴って体験会を開催します。以下の2日程で開催いたしますので、関心のある方はぜひご参加ください。▼体験会①(2016年9月22日)https://www.facebook.com/events/1805543026398585/▼体験会②(2016年9月24日)https://www.facebook.com/events/1644321502548476/*------------------------------------------------------------------------------*