古瀬とプロジェクトをやっていて思うこと①


古瀬とWCDC(ワールド・カフェ・デザイン コミュ二ティ)のプロジェクトを進めていると思うことがある。今日はそんなところをつれづれに書いてみようと思う。まずは、彼との出会いから始めてみたい。

 

古瀬との出会い

共同主催のメンバー 古瀬 との出会いは大学1年の冬まで遡る。(写真は、2010年の僕と古瀬。参宮橋のカフェにて。)

彼は僕が志望していたゼミ(研究室)の1年上の先輩で、1年時のゼミ選考後、新年度が始まる前のプロジェクトミーティングをキッカケに彼と出会った。

僕が所属していた研究室は各学年研究活動に取り組むことと並行して、学内でプロジェクトを行っていた。

プロジェクトは全部で4つあり、各学年で希望に合わせて、Web班、ガリ版班(今でいうフリーペーパーづくり)、映像班、ラジオ班の4つのプロジェクトにメンバーが分かれた。

プロジェクト全体において「メディア」をつくることで「メディアリテラシー」を学ぶというねらいが先生にあったのだと思う。(先生の専門の一つが「メディアリテラシー」だった。)

いま思うと、ぼくたちは「アクティブラーニング」というものをやっていた。実践を通して学びを深めるというスタイルはぼくには性に合っていた。また、自分たちの自己満足でつくるのではなく、先駆者(例えば、実際にラジオ番組をつくっている人)との交流や情報受信者(ラジオであれば「視聴者」)の声を取り入れつつ、プロジェクトを進めていった。先生が最初からそのような過程での学生の深い気づきをねらっていたかはわからないが、継続的かつ発展的に活動をつくっていく方法、そして、学生自身が学びを深めていける方法としては素晴らしい体験ができたと思う。有難いことである。


さて、僕は上記のプロジェクトの中から「ラジオ班」を希望した。理由は「おもしろそう」と思ったからだ。人数がたくさん集まって、選考になるのかなぁ、と思っていたが、想定外にバラバラの希望が出たようで、すんなり第一希望に通った。ここで少し驚いたことを覚えている。「え!みんな他のプロジェクトの何に惹かれたんだ!?」と驚いた。「みんな自分と同じものにおもしろみを感じるわけではないんだな」としみじみ感じるのはまだまだ先のことである。

同じラジオ班のメンバーであり、先輩だったのが古瀬正也である。

第一印象は正直全く覚えていない。

ただ、最初のラジオ班ミーティングの後、空き教室に誘われ「世界のエネルギー問題と六ヶ所村の現状」について話しを受けたのは記憶に残っている。

1、2時間話を聞いていたが、収まりがつかず、大学の近くカフェ移動して、引き続き話しを聞き、落ち着いた頃には夕方になっていた。

彼は当時「世界的な環境問題」に強い関心と問題意識を持っていたと思う。そして、それがのちに「対話」のプロジェクトにつながっていく。

いま、気づいたのだが、このまま書いていくととっても長い長い話しになる。今回はここまでとして、本題に入るとしよう。彼とプロジェクトをしていく上で僕が思うことをいくつか書き下ろし、ブログを締めようと思う。

 

ミーティングの本題以外の近況共有がすっごく長い

彼とプロジェクトをしていて思うことは本当にたくさんあるのだが、いつも印象深いのは「ミーティングの本題以外の近況共有がすっごく長い」ということだ。僕らの打ち合わせは基本的に2時間は軽く超える。長いときは午後いっぱいなど4,5時間打ち合わせをしている。

みなさんも「打ち合わせ」をすることがよくあると思うが、どういう感じでやっているだろうか?1時間ぐらい?もしかしたら30分ぐらい?「長い打ち合わせはわたしもあるよ」という方もいると思うが、それでは、打ち合わせの前置きはどれくらいするだろうか。「前置き?そんなのあってないようなもんでしょ」という方もいるかもしれない。

軽く挨拶を済ませて、本題に入る。それが”普通”だと思う。

ただ、僕らの打ち合わせの前置きは1時間以上かかることがザラである。打ち合わせ後の話し合いが2時間を超えることもある。

”普通”の基準を持ってすれば、”無駄”と思えなくはないが、僕はそうは思わない。これは「僕らが何を大切にしているか」というところに関わる話だ。

おそらくだが、僕らはあんまり”普通”の基準を重要視していない。いや、重要ではあるが、それ以上に重きを置いている基準がある。それは”自然”という基準だ。

 

”自然”という基準

わたしたちは、同じプロジェクトを誰かと一緒にやっていても、互いの状況は刻一刻と変わり続けている。

最近他の仕事でうまくいかないことがあったり、
パートナーとの間で起きていたことだったり、
自分の人生の計画についての大きい気づきがあったり、
最近感じたおもしろいことやびっくりしたこと、
悲しいことや楽しいこと、身体の成長や異変、
互いの状況は離れている間に刻一刻と変わり続けている。

いつもどおりに時間と場所を決めて、会ったとしても、目の前にいるのは、前に打ち合わせしたときの相手であり、そうではない。

それが”自然”である。

もしかしたら、打ち合わせどころじゃない状況であったり、何か上記のような変化の中で身体が共有することを求めていることが打ち合わせの内容以上にあるかもしれない。僕らはそうしたときに”普通”であることより、その”自然”に身を任せることを大切にしている感覚がある。だから、すっごく共有したい感覚があったら、まずそれについてコミュニケーションしていく。打ち合わせを終えて、まだ何か終わっていない感覚があったら、それを探しながら、コミュニケーションを続ける。気づいたら、喫茶店で男二人で涙を流していることがある。(僕が嗚咽を漏らすこともある。)

確かに、これは”普通”じゃない。そんなことは十分に知っている。しかし、”普通”であること以上に”自然”であることを重視している。

”自然”でいたい。そうあることを尊重し合いたい。そして、僕は”自然であること”を自分に求め、古瀬に求める。そうだからこそ、見えてくるものがある。そこから新しい何か知ることもある。そして、僕らはそうであるからこそ知れることがかけがえないのない、素晴らしいことだと知っているのだと思う。

だから、僕らのミーティングの本題以外の近況共有が”結果的に”すっごく長い。”普通と比べると”すっごく長い。ただ、”自然”と比べると長くない。いや、比べることではないのだろう。そのときどきの長さこそが”自然な長さ”なはずだからだ。

古瀬とプロジェクトをやっているとそんなことを思わざるをえない。

 

デザイン=自然をつくること

さて、”自然であること”は僕らがワールド・カフェをつくるときにも十二分に反映していることだと思う。

「対話」という出来事は”普通”と比べると特別な出来事かもしれないが、実際は”自然なこと”だ。

対話は”させる”ものでもないし、”起こす”ことでもない。
対話は起きるものだし、いままさに起ころうとしているものだ。まさに”自ずから然り”である。

だから、シンプルに言えば、身を任せればいいのだが、それは、おそらくこの世界で最も難しいことの一つだ。

どこかの誰かが「最もよくできたデザインは神の真似事だ」というようなことを言っていた気がする。僕は最も「よくできたデザイン」は「自然をつくること」と同義であると思う。そして、そのためには「自然と合一して、世界に働きかける行為(能動性)」を体感を通して学ばねばならない。

僕はまだまだ修行中だ。一生修行中だと思うが、もっともっとその真髄を学びたいと思っている。

ワールド・カフェ・デザイン コミュニティはそのような学習のポテンシャルがあると思っているし、そうなるようデザインしている。だからこそ、ミーティングの段階から僕らは”自ずから然り”の態度で臨んでいる。

みなさんと学び合えること、僕は待ち望んでいます。


2016.8.24. へるめこと中岡晃也


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現在、ワールド・カフェ・デザイン コミュニティは第一期生(10/8〜12/4の間、全6日程)の募集しています。(正式な申し込み開始は9月24日22:00〜)

また、募集に伴って体験会を開催します。以下の2日程で開催いたしますので、関心のある方はぜひご参加ください。

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World Cafe Design Community

ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ 第二期生募集! (2017/2/25〜5/14)

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