わたしたちは「参流者」を求めている
”我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん
あるとすればスタンドプレーから生じる、チームワークだけだ。”
攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 第5話
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昨日の午前中、共同代表の古瀬と打ち合わせだった。
第2期の募集を開始し、来月下旬には開催予定だ。
昨日は、今週の金曜夜に開催する「ミニ体験会&説明会」の打ち合わせだったのだが、その内容の話し合いの中で、わたしはある「語りづらさ」を感じていた。
というのも、この3ヶ月間のWCDCのプロジェクトに申し込んでくれる人への「かかわり方」についてのことだ。
語りづらさは、彼らへの呼び名に立ち上げ当初から現れていた。
わたしは彼らをなんと呼べばいいのか、ずっとわからなかった。
一般的に敷衍してしまえば、「参加者」なるのだろうが、「参加」という言葉はあまりしっくりこず、暫定的に「受講者」と呼んでいた。ただ、「受講者」もそれほどしっくりは来ていなかった。
参加、参画、参入、受講、、この辺りの言葉はどれもしっくりこない。
何がしっくりきていなかったか、は「参流者(さんりゅうしゃ)」という言葉が、古瀬のイメージを視覚化しながら聴く態度に触発され思わず、わたしの口から出てきたとき、そして、それについて追って話していたときにわかった。
馴れ合わない。依存しない。
わたしと古瀬はこれまで「日本一周ママチャリキャラバン」「対話のアトリエ」「問いの教室」と実践をともにすることが何度かあった。
ただ、それはあくまで互いが互いの関心のもとで生きている中でともに活動することになっただけであって、いつも一緒にやろうとかそういうことをしてきたわけではなかったし、一緒にやるために考えついたものでもなかった。
そして、この「ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ」についてもおそらくそうなのだ。
これらの活動は基本的には「プロジェクトベース」であり、わたしたちはもともとチームではない。
どちらが発起人にせよ、相手の力が必要であったからともにやってきたし、基本的には「終われば解散」が暗黙の前提だ。
この協働の前提は、互いが独立した探求者であり、その態度を相手にも求めていることの表現かと思う。
わたしたちは馴れ合わない。依存しない。
そして、そういった関係を求めている。もちろん、このWCDCに申し込んでくれた者にもそういった態度を求めている。
わたしたちはあなたの先生ではないし、先輩でもないし、言ってしまえば友人でもない。結果的に、先生と呼ばれることがあったり、先輩のように慕ってくれたり、友人となっていたりももちろんするが、わたしたちは鼻からそういった関係は求めていない。
けれど、一般的には、そういった関係を好み、無自覚にしろなんにしろ、求めている指導者もいるだろう。わたしはそういったコミュニティは好きではないし、誓って、そういった人間にはなりたくない。
だから、あなたには”参加”してほしくもないし、”受講”してほしくもない。
わたしはあなたに”流れてきて”欲しいのだ。そして、わたしたち自身も”流れていたい”んだ。
こうした考えはあまりにも語られてないように思える。そして、それゆえ言葉で表現するのが長らく難しかった気がする。ただ、今なら少し言葉にできる。よって、ここでは二つの形象を通して説明してみたい。
一つは「苗木」。もう一つ「サーフィン」である。
一つ目の形象「苗木」
WCDCは誰のものか?
わたしのものか、古瀬のものか。どちらのものでもない。そして、どちらのものでもある、こともない。
WCDCは、わたしと古瀬のあいだにあった種子であり、昨年の夏に発見し、育てはじめて、第1期開催までに芽となり、第1期がはじまってからは英治出版さんの元で育てはじめている苗木なのだ。
わたしと古瀬はその育成者であり、恵みの享受者であり、いわずもがな、第1期生は同じく、ともに育ててくれた育成者であり、恵みの享受者であると思っている。
わたしたちは、この植物に必要な養分を必要なときに常に検討しながら、与え続けてきた。そうして、育った苗木なのだ。もし、わたしたちがこのケアを怠ったら、途端に枯れはじめるだろう。そして、最終的には枯れ果ててしまうだろう。
だが、今日までの半年の間、なんとか育ち続け、わたしたちはいくらかの恵みを得ることになった。あるものは、協働の理を。あるものは、表現の喜びを。あるものは、存在の工夫を。あるものは、理性の活用法を。などなどと、各々が各々にとって必要な恵みをこの苗木から得たかと思う。
これがわたしたちの共同活動あるいはコミュニティのイメージの一側面と言えるかと思う。
わたしたちは、こうした苗木にともに養分を与えてくれる者を求めている。そして、ともに苗木からの恵みを享受し、収穫の祝祭を楽しみたいと思っている。
二つ目の形象「サーフィン」
わたしはサーフィンをやったことがない。おそらく古瀬もやったことはないかと思う。
しかしながら、想像するに、サーフィンは海の波に乗る一連の活動であるのは間違いではないだろう。
では、サーフィンはどのように始まるのか。
まず、波を見つけるだろう。「ここにいい波がある」と。そして、そういった発見からはじまり、そこで誰かが波に乗りはじめる。
すると、端から見ている者がそこに合流していったり、する。
気づくと、その波のある海岸は「◯◯海岸」と呼ばれるようになり、そこにより多くの人が合流したりする。あるいは、いくらか楽しんで、違う波を求めて行ったり、あるいは、そこの波が好きなり、ずっと乗っていたり、たまに戻ってきたりするのかと思われる。
思うに、WCDCは、この「波」の一つである。
社会という海で、わたしと古瀬がこの「波」を発見した。そして、その海岸に「ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ」という名前をつけることにした。
その海岸に行けば、波に乗ることができる。もちろん、乗ろうとしなければ乗れないものであるし、乗ろうとしても最初は難しかったりもするだろう。また、その日の体調によっては乗れなかったり、うまく乗れたりもするだろう。
けれど、波は依然としてそこにある。
わたしと古瀬はこの波に乗ってみることにした。それはこれまでいろんな波(ワークショップ)に乗ってきて、確かにいくつかはこの波に似たような波もあったが、どうもそのどれらとも異なる波だったし、この波に乗ることで新たな何かが学べたり、身につけたりできると直感していた。
そして、わたしたちは「誰か一緒に波に乗らない?」と声をかけ、誘いはじめた。
ただ、あまり多くの人と乗っても、スペースがなくて、みんな楽しめないだろうということもあり、人数の制限はしている。やってみて、あぁ、もっとこういうタイミングで乗りにきた方がいいな、とか、あぁ、乗っていないときはもっとこういう感じで交流した方がいいかもな、とかも気づくことがあり、適宜修正している。
そうこうして、みんなで乗ってみる。これが割と楽しいし、人の乗り方から、学ぶことも多分にある。
だから、わたしたちがやっていることは、この波が「あるよ〜」と言うことと、混雑したり、危なくならないように、最小限目を光らせつつ、自分たちも一緒にサーフィンを楽しむことなのだ。
こうした形象によって表現される思想がわたしたちの実践にはあり、わたしたちは、わたしたちの誘いに賛同し、波に乗りにくる人を「参流者(さんりゅうしゃ)」と名付けることにした。
この言葉には「流れ(波)に参加する」という意味もあるし、留まることを前提にせず「流れていく者」という意味も含まれている。
STAND ALONE COMPLEX(独立者たちの共同体)
わたしたちは人生というサーフィンをしている。好きな波に乗ればいい。そして、いくらでも学び、気づき、試し、楽しめばいい。そこでの出会いもまた楽しいだろう。
一つの波に飽きてきたら、違う波を探せばいいだろうし、たまに戻って乗りたくなったら、戻ってきたらいい。
ただ、基本的には自分で試みて、自分で学ばねばならない。だからこそ、「参流者」には独立者(スタンドアローン)であってほしい。そして、WCDCには、チームプレーなどという馴れ合いや依存関係などの前提はないし、求めていないし、求めないでほしい。
わたしたちの間にあるとするならば、「スタンドプレーから生じる、チームワークだけだ」ろう。
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