「一緒に慣れよう」の教育観〜第2期第1回を終えて

こんにちは。WCDCのへるめこと佐々木晃也です。

本日は、先週行われたWCDC第2期 第1回のレポートついでに書いています。


第1回は、早朝10時から19時までという丸一日のワークショップ形式でのプログラムになっており、プログラム内でワールド・カフェをデザインし、開催し、振り返るというプログラムになっております。

最初の1回で、ワールド・カフェを①デザインするということ、②運営するということ、③振り返るということ、という本コミュニティにとって大事な3要素を一気に体験してもらうことが目的です。その基本的なサイクルを第1回で体験してもらうことによって、今後の実践・学習の感覚を感じてもらいます。

実際には、朝10時に集合し、受講者と主催側でチェックイン(自己紹介)をし、その後、いきなり、ワールド・カフェをつくってみる体験をします。午後には招待制のワールド・カフェをそれぞれが参加者を招待しておき、実施し、夕方からは振り返りを行い、1日のプログラムが終了になります。

こうしたプログラムになっているのはWCDCの「教育観」が反映されているからかと思います。今日は、こうした教育観について、少し書いてみようかと思います。

 

「ワークショップ的課題」への批判

ワークショップという学習スタイルは一般的に学校教育(授業)と対比させて説明されることがあります。

それは「先生(教える人)がいない」という説明です。

ワークショップでは、いわゆる「先生」のポジションの人を「ファシリテーター」と呼びます。ファシリテーターの翻訳はいろいろとありますが、動詞「facilitate(促す、容易にする、楽にする)」の名詞形なので、ここでは「促進する人」と訳してもいいかと思います。文献によっては「助産師」とも書かれていることがあります。

何にせよ「何かを産み出すことを助ける、あるいは促進する人あるいは立場」のことをファシリテーターと呼びます。
そして、WCDCでは、ファシリテーターはわたしや共同主催のまーぼーの立場を指すかと思います。

ぼくらがもし、”学校の先生”であれば「ワールド・カフェはこうやってデザインするとか、こうやって運営するとか、こうやって振り返る云々」ということを受講者に机に向かってもらって、レクチャーして、ノートをとってもらうというようなことをするのかもしれません。

ですが、ぼくらはファシリテーターなので、そういったやり方はしません。では、どうやってやるのか。

一つのやり方として考えられるのは、まずこちらから簡単なレクチャーをして、その後、適当な課題を受講者に出して、解いてもらう、というやり方かと思います。

例えば、「ワールド・カフェで重要なのは問いの立て方なので『ワールド・カフェ』という本に書いてあるよい問いの要素『パワフルである』『わくわくする』などを満たす問いを「コミュニケーション」をテーマにつくってみてください」というような「よい問いの要素」の小レクチャーと「コミュニケーション」などのなんらかをテーマにした課題に取り組むワークをやってもらうかもしれません。これはいかにも「ワークショップ的な課題」です

しかしながら、これは、ほとんどの点であまり好ましいものではありません。

まず、「重要なのは問いの立て方」というところです。
もちろん、問いの立て方が重要なのはそうなのですが、実際「問いそのもの」は、「問い」だけでつくられるわけではなく、他のワールド・カフェの構成要素(時間的要件、参加者の属性や人数など)との関係の中でつくられるものであり、いきなり「問いそのもの」については考えられないのです(詳しくは、ぼくの論文「対話型ワークショップにおける問いのデザインに関する研究」を読んでください。)
ですので、問いそのものを考えるのは重要なのですが、そのためには、それ以外の要素を全て把握していることが重要だとぼくたちは自分たちの研究成果から考えております。

キャリア相談をされて、相談者にいきなり答えを求めても出てこないようなものです。「本当の答え」というのはさまざまな−それでいて必要不可欠な−要素の把握を通して、必然と立ち上がってくるものです。問いづくりも同じで、重要だからといって、いきなり問いそのものを求めるのはあまり理に適っていないのです。

次に、「本に書いているよい問いの要素」という点です。

これもあまり好ましくありません。ワークショップが学校教育に対比される際、論点となっているのは、「◯◯が言うから正しい」という権威的なものに頼る考え方や学び方への懐疑・批判です。簡単な話ですが、16世紀までほとんどすべての人が「宇宙は地球を中心に回っている」と考えていました。けれど、ガリレオらの科学的研究によって「地球は太陽を中心に回っている」ことがわかりました。こうした史実は種々ありますが、そこから言えるのは、自分で調べてみることなしに「常識」や「見解」に無批判に身を委ねるのはあまり好ましいものではないということです。それこそこうした教育は対話の思想家パウロ・フレイレによって「銀行型教育」(今でいう「知識詰め込み型教育」の名残といってもいいでしょう)というように批判的に指摘され、対話教育の対岸に位置付けられています。

それゆえ、まず、権威的・支配的な誰かの規定に従うのではなく、自分たち自身でつくってみて、後から、そういった見解を知って、自分の言葉として納得したり、吟味したりすることが好ましいかと思っています。

また、最後に「「コミュニケーション」をテーマにつくってみてください」という課題のつくり方ですが、これも全く好ましくありません。

しばしば、なんらかの能力を身につけようとするとき、課題の絞り込みとしてテーマや領域を絞ることがあるかと思いますが、わたしたちにとってはこれも好ましくありません。

それは、ここでの場合、学習者自身が問いたいことから外れたテーマを設定してしまいかねない可能性があるからです。また、教育学用語で「真正性」という言葉があります。プロジェクト型学習において、「真正(authentic)な課題」に取り組むことの重要性を指摘する際に語られる言葉です。要するに単に講義を聴いたり、”おままごと”の体験学習に取り組むのではなく、実際の”本物の問題”を題材にするということが重要なのです。いわずもがななのですが、教育者はしばしば忘れがちな事実、人は”本物の課題”に取り組むときに、しっかりと学んだり、考えたり、成長したりするという事実を思い出します。

また、これは「評価」の問題にもつながります。例えば、学校教育が普及していない地域の子ども(例えば発展途上国で労働もしている子どもたち)に「3+7は?」という算数の初歩レベルの問題を出しても、答えられない場合があります。こうした際、子どもたちは算数能力のレベルが低いと評価されてしまうことがあります。ですが、実際、そういった子どもたちは労働の中で、遥かに高度な演算計算を暗算で行うことができたりします。

こうした”状況の中での能力”こそ、まずもって、生き抜くために必要な能力です。「3個のりんごがあって、7個のみかんがあって」というような授業の中での限定的な状況下でのおままごと課題では、本当の能力を評価することあるいは鍛えるということは疑わしいです。それゆえ、主催側から、このワークではこうした答えを出してください、というような擬似的な課題設定は好ましくありません。

さて、先に挙げたいわゆる「ワークショップ的課題」のほとんどの要素に批判的な見解を提示しました。それでは、ぼくたちはどういうやり方をしているのか。WCDCでは「一緒に慣れよう」という学習スタイルを取っています。


「習う」より「一緒に慣れよう」の教育観

この学習スタイルは全くシンプルなスタイルで「人は一緒に創ることでその人にとって必要なことを学ぶ」という学習観を前提にしています。

WCDCの目標は「よいワールド・カフェをデザインできるようになる」ということです。ならば、その感覚や技能を分解して、バラバラに擬似的に学んでもらうのではなく、実際に一緒につくってみることが一番学べます。いくら自転車の乗り方に必要な能力を分解して、それぞれを学ばせたところで、転びながら実際に乗ってみようとした体験に適う学習スタイルはありません。

また、必要な能力を分解できるとは思いますが、できたとしても、それら一つ一つに着目すれば、ある人は、一つの能力に関しては満たしてたり、一つの能力に関しては十分に高いレベルで持っていたり、一つの能力に関しては不足していたりするはずです。それらを個々に診断し、補っていくのは現実的ではないですし、なにより重要なのは、個々の能力を総合しつつ、実際の状況で活かす真正な能力の育成です。

また、自転車の乗り方と異なるのは、「まず、やってみろ」の教育観では限界があるということです。自転車は乗れたときのイメージが浮かびやすいです。実際乗れたことは主観的にも客観的にもそのときに認識できます。けれど、よいワールド・カフェ、あるいはよい問いが生成できたときの感覚ははたから見て、わかりにくいのものです。やったことがない人にとっては何を目指して、どうやっていいのか、よくわかりません。では、こうした総合的かつ実践的な能力を何がゴールかもまだわからない学習者にどのように教えればいいのか?

何も難しいことはないと思います。

こうした能力の発達プロセスは、職人(あるいは技芸者)の熟達プロセスに似ているのです。

舞踊やダンス、陶芸、ビリヤード、空手など、ありとあらゆる創造活動や身体表現活動において、学習者は師の側について、真似たり、一緒にやってみるなかで、スキルを熟達させていきます。

子どもが親のあり方を見て、コミュニケーションの仕方や社会での振る舞い方を学ぶのとも同様かと思います。

そして、もちろん「師(あるいは親)」がすべて正しいとは限りません。一つが正しいのであれば、こんなに流派やらなんやらは存在しません。

そうであるなら、わたしたちは、師であり、同志という関係性の中で、ともに真正な課題(WCDCでは、午後に実際に参加者を招いてワールド・カフェをやるためのワールド・カフェをデザインするという課題)に、一緒に取り組み、それに必要な考え方や振る舞い、技術、感覚をそれぞれに体験しながら学んでいくことが理に適っていると思われます。

そして、できたときに、一緒に「できた!」という瞬間を味わい、喜びます。こうして、「できた!」という感覚が共通のものになれば、その感覚を手掛かりに、その後、個々のチームで実践をつくりあげていってもらえます。こうした共通感覚なしに、学習者が主催側にいつまでも答えを求められてもキリがないですし、主催側としてもそうした関係性を望んではいません。

こうした学習体験はほとんどの人に未知であり、不確実でドキドキすることではありますが、同時に魅力的であり、一緒にやるからこその安心感もあります。そして、こうした真正な仕方での実践と振り返りを通して、自分たちの能力や感覚を言葉にして、意識下させながら、次なる実践に活きるような糧・知恵を血肉としていくことを目指します。

もちろん、この過程で、わたしたち(わたしと古瀬)も新しくさまざまなことを学びなおします。わたしたちも、「午後のワールド・カフェのデザインどうしよう!?」というところではそのときは同じように切羽詰まっていますし、本気で取り組んでいるからです。

 

本当は「先生」がいないといけないのではないのか?

WCDCでは、こうした「一緒に慣れよう」の教育観で全6回を進めていきます。今後も楽しみです。

ここでは、最後に疑問を呈して終わりたいと思います。

冒頭の方で、ワークショップは「先生(教える人)がいない」というように、しばしば授業教育と対比されて説明されるという話をしました。

しかし、わたしは「実は先生はいないといけないんじゃないのか?」と思っています。

なぜなら、これまで数多くのワークショップに参加してきましたが、優れたワークショップのほとんどは「先生」がいました。

「聴く」ということ。「呼吸する」ということ。「語る」ということ。

そうしたことに、徹底的に向き合い、人生の多くを突き詰めてきた人が「ファシリテーター」と呼ばれる立場に立って行われたワークショップでは、本当に見たことも、感じたこともなかった次元の経験ができました。

それは、その次元の世界を先に生きている人(ファシリテーター)がいたからであり、その世界はそうした人が一緒にその世界へ旅してくれることで初めて体験できた世界でした。

だからこそ、わたしは、あるテーマについての優れたワークショップには、実はファシリテーターとして最もそのテーマについて切実に学ぼうとしているあるいは学び続けている者がいるのではないか、そ言葉の本当の意味での「先生(先に生きる者)」がいるのではないかと考えております。

ワークショップというスタイルの広がりによって、アマチュアが教育実践できる学びの場は増えてきましたし、そういった広がりの一方で、あまり突き詰めていない者が開く学びの場も増えてきたかと思います。

人の実践にとやかく言っている暇はあまりありませんが、こうした状況はちゃんと問題視して、それぞれが自身の実践を批判的に省察するべきではないかと思います。
そして、WCDCとしても、一層自分たち自身が学び続ける姿勢をちゃんと保っていこうという念を忘れずにこれからもやっていきたいと思います。


へるめ

World Cafe Design Community

ワールド・カフェ・デザイン コミュニティ 第二期生募集! (2017/2/25〜5/14)

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